クライミングの保持力トレーニングを解説する書籍「BEASTMAKING ビーストメイキング クライマーのための保持力強化トレーニング」が2023/9/4に発売されることが発表されました。クライミングの保持力強化だけを掘り下げた日本語書籍の発売は初めてで、保持力不足に悩む人にとっては画期的な事ではないでしょうか。発売前ですが、今回原著を読み直したので、少し内容を紹介します。
著者の紹介
著者のネッド・フィーファリーは、フィンガーボードで有名なビーストメーカーの共同創立者です。彼は仲間たちと共にイギリス・シェフィールドで岩登りに熱中していました。
彼らは荒い岩質であるグリットストーンの岩を登った後でも、指皮に負担をかけずにトレーニングしたいと考えていました。しかし既製品は目の荒い樹脂製で、指先から出血することも度々でした。そのため、滑らかな木製のフィンガーボードを自分たちで開発したのが、大学在学中の2007年です。
ビーストメーカーと名付けられたそのフィンガーボードは、おそらく世界で最も有名なフィンガーボードとなりました。日本でも多くのクライミングジムに設置されています。
ネッドはビーストメーカーを活用したトレーニングを行い、8Cとグレーディングされた課題を何本か完登しています。また、8B+のフラッシュも達成しています。本人曰く、体力やスキルに秀でているわけではないが、トレーニングを組み立ててやり抜く才能があったので、少しずつ強くなっていき、その結果として良い成果が出ているとの事です。
奥さんはオリンピアンでもあるクライマーのショウナ・コクシーで、本書の中でも所々でショウナのトレーニング事例が触れられています。
本書の内容は体力トレーニングに特化
本書は冒頭にも書いた通り、「クライミングの保持力を鍛える」ための書籍です。かなり狭い領域にフォーカスしており、入門書ではありません。
クライミングが上達するためには、スキル・体力・メンタルの3領域を鍛える必要があります。そのため多くのクライミング入門書は、その3つの領域の鍛え方を浅く広く取り上げて解説するものになります。
本書にはスキルの要素(クライミングのムーブ解説・練習方法など)や、メンタルの要素(完登に至るまでの精神的な心構え・準備方法など)は、殆ど載っていません。体力トレーニングに特化しています。
本書の目次は以下の通りです。
- トレーニングの基本原理
- トレーニング計画
- 指の力
- 能動的指力と受動的指力
- フィンガーボードを始めよう
- グリップタイプと指のフォーム
- フィンガーボードのエクササイズ
- フルクリンプは鍛えるべきか
- ピンチ
- ボードトレーニング
- 持久力トレーニング
- フットレストレーニング
- 腕のトレーニング
- 体幹
- 柔軟性と可動性
- 手と上半身のメンテナンス
- クイックセッション
- プロのアドバイス
3章から12章がいわゆる保持力のトレーニングを扱っており、全18章のうち10章を割いています。その他の章も引きつけの力や体幹のトレーニングであったり、柔軟性のコンディショニングなど、体力の向上にフォーカスした内容となっています。
著者のトレーニングに対する考え方
本書ではフィンガーボードのトレーニングプログラム(何秒間何回フィンガーボードにぶら下がると良いか等)ももちろん紹介されています。しかしそのようなトレーニングプログラムの情報は本書の一部に過ぎません。
本書のポイントは、なぜ保持力を鍛える方がよいのかという理由や、トレーニング方法を組み立てるための基礎となる考え方を提示してくれている事です。それらを、科学的な知見や著者の経験をふまえて、わかりやすく解説してくれています。
いくつかポイントを以下に紹介します。
本書は保持力のトレーニングに多くのページを割いています。しかし、"保持力をトレーニングするだけでクライミングが上達する"とは主張していません。
クライミングは複雑なスポーツです。100メートル走のような単純な動作の繰り返しだけが求められるわけではありません。そのため、基本的にはクライミングをたくさん行って様々な動きを習得する事が、強いクライマーになるためには必要というスタンスです。ただし、ただ単にたくさんクライミングを行うだけだと効率的ではありません。クライミングをたくさん行いつつ、保持力を代表とした体力トレーニングを補助的に加えることが、成長を早め、怪我のリスクを減らす最高の手段である、として推奨されています。
クライミングに加えて補助的に保持力トレーニングを行った方がよい理由
ただ単にクライミングを行うだけではなく、補助的に保持力トレーニングを行った方が良い理由はなんでしょうか。それは多くのクライマーに取って、保持力がクライミング能力全体の向上を妨げる制限因子=「弱い環」となりやすいからです。
初心者の頃は定期的にクライミングするだけでクライミング能力が向上していきます。クライミングは複雑なスポーツなので、壁や岩の中でどのように動けば効率的なのか、学習する事が沢山あります。そのため、クライミングを始めて数年は、それらクライミング特有の動きを修得する事で、どんどんクライミング能力か向上します。また保持力自体も、それまでホールドを保持するような動きに慣れていない人が殆どです。そのため敢えて補助的な保持力トレーニングを行わなくても、クライミングするだけで保持力も向上します。
しかし、そのような初心者ボーナスとも言える時期を過ぎると、保持力が弱い環になってきます。クライミング特有の動きは充分洗練されていたとしても、ホールドを保持できない事が原因で登れなくなってきます。また、保持力も既に一定程度向上しているので、ランダムに課題を登っているだけでは、更なる保持力の向上に必要なトレーニング刺激が得られなくなってきます。
このような段階になってくると、何も考えずにクライミングするだけではなく、戦略的にプログラムを組んで保持力を鍛える方が効率的になってきます。
保持力の効率的な鍛え方
保持力の鍛え方は、表紙のイメージからフィンガーボードのことばかり書いてあると思うかもしれませんが、そうではありません。大きく2通り紹介されています。
- 保持力を鍛えることに集中したクライミングを行う
- フィンガーボードでトレーニングする
保持力を鍛えることに集中したクライミングを行う
これは例えば、苦手なホールディングが出てくる課題にたくさんトライする事であったり、強傾斜の課題やムーンボード等の課題を登る事です。できるだけクライミングのみを行いながら保持力を鍛えたい場合は、この方法がよいでしょう。ただしポイントがあって、一手一手の強度を高く保つことと、弱点であるホールディングに集中する必要があります。
漠然とジムで目についた新しい課題を登るようなやり方だと、この2点がなかなか満たされないことが多いです。10章の「ボードトレーニング」では、このようなクライミングトレーニングを飽きずに効果的に続けるプログラミング方法が、具体的に紹介されています。
フィンガーボードでトレーニングする
フィンガーボードでのトレーニングは、本書では最も時間効率がよく安全に保持力を鍛える方法として紹介されています。
フィンガーボードは負荷を調整しやすいです。そのためトレーニング効果の高い負荷を短時間でかける事ができます。またぶら下がる際に負荷をゆっくりとかける事ができるので、実際のクライミングのように急激な負荷がガツンと関節にかかることもありません。
注意点として、フィンガーボードばかりやって実際のクライミングを疎かにしないようにと記載されています。クライミングはスキルスポーツなので、鍛えた保持力を活かせるようにムーブの練習もきちんと行いましょう。
保持力の向上には時間がかかる
効率的な保持力のトレーニングの考え方を提案する本書ですが、繰り返し述べられている注意点があります。それは保持力の向上には時間がかかるということです。数日や数週間で向上するものではなく、月単位、年単位で徐々に向上させていく必要があるという事が強調されています。
保持力のトレーニングでは、まず神経系が反応し、数週間で保持力が向上します。しかしそれらの反応は、今ある筋肉や腱・靱帯の量や質の範疇で起きるものです。理想的な保持力の向上は、筋肉や腱・靱帯が肥大して土台となり、その土台のうえで神経系が適応する事の繰り返しです。しかしそれには月単位、年単位の時間がかかります。
ありがちな事例として紹介されているのは以下のようなものです。
- 保持力が足りてないと感じる
- 数週間フィンガーボードでトレーニングして保持力の向上を実感する
- 保持力向上のスピードが遅くなるのでトレーニングをやめる
- 半年くらいして、保持力が足りてないと感じる→2に戻って繰り返し
このパターンだと、土台となる筋肉、腱、靱帯の大きさはいつまでも変わらず、結果的に時間を無駄にしてしまいます。
本書では、保持力と柔軟性は一年中なんらかのトレーニングを継続すべきと提案しています。
能動的指力と受動的指力
本書において特徴的な考え方がもう一つあります。4章の「能動的指力と受動的指力」です。
指力を鍛える際に、様々なホールディングの種類毎に鍛える必要があるというのは、比較的一般的な考え方だと思います。「能動的指力と受動的指力」は、それらのホールディングを大きく2つに分類する考え方です。
ざっくり言うと以下のような違いがあります。
- 能動的指力・・・ハーフクリンプ、フルクリンプ、ピンチなど、ホールドをしっかり握り込む力
- 受動的指力・・・オープンハンドなど、指先の摩擦力を利用してぶら下がって離さない力
この2つを分けて考えるのはなぜでしょうか。能動的指力では、手のひらの中にある筋肉(虫様筋や骨間筋)が活躍します。これらは受動的指力では積極的に使用されません。そして、オープンハンドで指を引っかけて登る癖のある人は、能動的指力が必要な薄いピンチなどでしっかり握り込もうとしても、虫様筋や骨間筋が発達していないので握り込めないのです。
もちろん能動的指力ばかり鍛えていると、オープンハンドで指を引っかけて省エネで登るような登り方に対応しづらいです。しかしこの場合は、能動的指力で鍛えた筋力は無駄にはならず、体の動かし方のコツの修得で対応できる範囲が大きいです。
両方の指力に対応できるようになっておくべきですが、特に能動的筋力を使うホールディングを避けていると手のひらの筋肉群が発達しません。そのため、できるだけ能動的筋力を鍛えるように心がける事を、本書では推奨しています。
余談
本書の英語版では、縁あって、私の家のトレーニングボードの写真が掲載されています。
数年前の英語版刊行に際して、出版社から、自宅にトレーニングボードを設置している写真の募集がありました。応募したところ、著者のネッド・フィーファリーの気に入ったとのことで、掲載に加えて、出来上がった書籍を一冊送っていただいたのでした。
日本語版にも写真は掲載されてるのか、購入して確かめてみようと思います。