データドリブンなクライミングトレーニング(Lattice Training)

これまで本ブログでは、クライミングのトレーニングやリハビリの方法自体について取り上げてきましたが、今回はそこから少し離れて、クライミングの実力向上に影響する要素を明らかにする研究の状況であったり、それらの研究に寄与するデータを大きくスケールさせ始めているユニークな会社Lattice Trainingの紹介をしてみます。

このようなトピックを取り上げた背景ですが、安宅和人さんの新刊「シン・ニホン」を読んだことにあります。

世界の産業構造が、データ×AIをベースに新たな価値を生み出していく構造へと変わる中、取り残されている日本の現状を事実ベースで鋭く描き出し、日本再生の勝ち筋と、そのために必要となる人材育成を鮮やかに提示しており、衝撃を受けました。

自身の本業(某社情シス)への展開がぐるぐる頭を巡っていますがここでは一旦置いておき、クライミングの世界においても、まだまだ科学的な解明の余地があるトレーニング理論の発展に、データドリブンなアプローチで挑もうとしている会社があることを思い出した次第です。

ライミング実力に影響する要素の研究

ライミングの実力は、様々な要素に影響を受けます。身長・リーチ・指の保持力などのフィジカル要素や、ムーブの洗練度・足置きの丁寧さなどのスキル要素、フォールへの恐怖心・集中力などのメンタル要素です。また、それらの要素もまた様々なトレーニング刺激によって向上します。

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これらの関係性は、70年代から本格化したクライミングレーニングに特化した研究や、クライマー間の経験値の口伝、出版を通して、徐々に明らかになってきています。

例えば、指の保持力とクライミンググレードの関係性につながる研究は、Eva Lópezが2004年に行なっています。

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Eva López, PhD. Climbing Coaching based on Science and Experience: Fingerboard training guide (I). Preliminary evaluation

最高グレードがフレンチグレードで6b〜8c+まで散らばった集団において「特定のエッジサイズにぶら下がれる時間」の分布を現しています。例えばエッジサイズ14mm(水色の線)だと、75パーセンタイルのところが51秒なので、この集団では上位25%は51秒より長くぶら下がれる、下位75%は51秒はぶら下がれない、という事を現しています。

被験者はそれぞれ最高グレードを申告しているので、ぶら下がり時間との相関も確認できそうですが、残念ながらこのページではそこまで言及されていません。しかし、なんとなく、クライミングの実力に影響する要素と、実際の実力の関係性について研究が行われているということを理解してもらえればよいと思います。

研究データ収集の課題

このように、実際のクライマーを被験者として取得したデータを分析し、クライミングの実力に影響する要素は何か、その要素はどんな条件でどのくらい影響しているのか、その要素を効率的に向上させるトレーニング刺激はなんなのか、といったような事の研究が行われています。

ここで一つ課題となるのが、データの取得方法です。詳細は割愛しますが、取得したデータを統計解析の手法を用いて関係性を導こうとすると、データ数が多ければ多いほど、正確な関係性を表すモデルを導出する事ができます。

例えば、先に挙げたEva Lópezの実験では、被験者の特性が限られています。

  • 地域性が偏っている(人種による影響などを排除できない)
  • ライミングのジャンルが偏っている(スペインの石灰岩を好むルートクライマーが主で、例えば花崗岩好きのポルダラーは含まれてない)

そのため、全てのクライマーに普遍的に当てはめらるモデルを導出するには、地域・人種・性別・クライミングの嗜好などの偏りを考慮して解析できる充分多くのデータを収集する事が必要です。

そのスキームを作り出したのがLattice Trainingです。

Lattice Training

latticetraining.com

Lattice TrainingはUKのクライミングレーニングサービス提供会社で、世界最難のワイドクラック「Century Crack(5.14b)を初登したワイドボーイズの1人、Tom Randallも創始者の1人です。

対面でのコーチングに加え、オンラインでのアセスメント、コーチングも行なっています。このようなクライミングのオンライントレーニングは広がりを見せており、アメリカではtrainingbeta、climbstrong、powercompanyなどがサービス提供を行っています。

大量データから明らかにする新しい知見

Lattice Trainingは取得するデータの多さ・多様性を元に様々な分析を行い、クライミングの実力とそれに影響する要素に関する新たな知見を次々と明らかにしています。これは、他の同業サービスが主にコーチの知見、経験に基づく指導を行なっているのに比べて、際立った特徴です。

www.trainingbeta.com

例えば、上のpodcastでは、新たに得られた知見として以下のような情報を公開しています。

  • 高身長と低身長が同じグレードを登ると、高身長は相対的に指力が要らない。高身長は低身長に比べて多くの要素でアドバンテージがあるが、唯一体幹力は低身長より強化が必要。
  • 男性と女性では、女性の方が指力が少なくても登れるグレードが高い傾向がある。柔軟性が高く体が壁に近くでき、しなやかで効率的なムーブが実行できる事が原因と推測される。
  • 女性の場合、指力よりも肩の安定性が弱い環になる傾向が強い。怪我しやすいという観点と、肩が安定しないと指力が強くてもホールドに力が伝わりにくいという観点。
  • 「子供は大人に比べてパンプしにくい、乳酸がたまらない」は幻想。同グレードを登るために必要となる前腕の有酸素能力は、子供と大人で変わらない。
  • BMI値とグレードの相関を取ると、グレードが上がるにつれてBMIは下がる傾向だが、ボリュームゾーンは健康的な数値に収まる
    (男性は21〜24、女性は19〜22くらい)

Lattice Trainingがこれらの知見を明らかにできている理由は大きく2つあります。「測定器具とアセスメントスキームの標準化」「データアナリストの存在」です。

測定器具とアセスメントスキームの標準化

Lattice Trainingはクライミングの実力に影響する複数の要素を測定する方法を標準化しています。標準化する事で、測定方法の違いが結果に影響を及ぼす事を防ぐとともに、遠隔地の被験者がセルフで測定できるようになり、地域性の偏りが少ない大量のデータを得ることを可能にしています。

例えば指の保持力を測定するハングボードのような器具は、エッジのサイズや丸まり具合が製品によって千差万別で、測定結果に影響を及ぼします。その影響を排除するため、アセスメント用の推奨ハングボードを開発して販売しています。また、保持力の測定方法についてもマニュアル化されていて、アセスメントサービスを購入すると、マニュアル化された測定方法が指示され、被験者は指示に従って測定が可能です。


Lattice Training: Testing Finger Strength

また、プレミアムプランでは、同じく標準化された大きなシステムボードを使用して、クライミングの実動作を行なってアセスメントします。このようなボードを使用した測定は、被験者個人で行うのは難しいですので、Lattice Trainingではアセスメントを行えるコーチの認定制度を導入し、認定コーチがいるところでは世界中どこでもアセスメントができるように拡大を図っています。認定コーチは被験者のデータを測定し、測定結果を認定コーチがLattice Trainingに送付すると、アセスメントがフィードバックされるようです。


Matt Takes On The Lattice Training Assessment | Climbing Daily Ep.851

Lattice Trainingのホームページでは、どの場所でプレミアムプランのアセスメントが可能か調べる事ができます。2020年2月現在では、UK、オランダ、ドイツ、イスラエル、カナダ、アメリカ、シンガポールに展開されているようです。

データアナリストの存在

上記のスキームにより、大量のデータが蓄積されていきます。Lattice Trainingには、これらの大量のデータを解析するため、統計解析のスキルを持った人材が在籍しています。

latticetraining.com

数学の修士を取得した後、掃除機等で有名なダイソンでデータアナリストとして3年間勤務していた際に、Lattice Trainingに誘われ、参加して5年目との事です。参加した当初はExcelスプレッドシートで管理されていた不揃いなデータをクリーニングして、大量データが扱えるように管理方法や収集方法を改善してきた苦労をpodcastで語っています。

クライマーとしても20年程度の経験があり、トレーニングに係る知見も活かしながら、解析を続けているようです。

未来のクライミングレーニング考察

別データとのマッシュアップ

以上のようなデータセットが積み上がってきている状況ですが、今後、更に世の中のデータ×AI化が進むと、別データとのマッシュアップによるトレーニング進化も想像できます。例えば、遺伝子情報とLattice Trainingのデータセットを組み合わせて、最も効率的なトレーニング内容を立案するなんてこともできそうです。

例えば、筋肉や結合組織の回復速度に影響するホルモン量を考慮してトレーニング頻度を変えるとか、速筋と遅筋の割合によるトレーニング刺激内容を変えるなどです。

アメリカのクライミングコーチEric Hörstが自著の「Training for climbing 3rd edition」等で繰り返し述べていますが、自身が到達できる可能性のある最高グレードは、理論的には、遺伝子のポテンシャル内で最大限効率的なトレーニングをした結果であるということです。悲しいかな、誰もが誰もクリス・シャーマやアダム・オンドラになれるわけではありませんが、可能性の中で目一杯実力をストレッチするための最適解を導く一助になるのではないでしょうか。

センサーでのデータ収集

Lattice Trainingは、測定方式自体はアナログで、ストップウォッチでの保持時間測定や黙視でのテクニック評価だったりします。この測定方式もセンサーによるデジタル化が進みそうです。足元にかかる負荷をリアルタイムで計測して、指への負荷数値をスマホアプリで確認できるentralpi などはその先駆けでしょう。また、ウェアラブルカメラを装着して登り、視線データとスキル習熟度の関係を調べるなんていうのも面白そうです。


Introducing ENTRALPI -- Finger Force Testing and Training System!

終わりに

最後まで読んでいただきありがとうございました。お断りしておきますが、筆者はクライミング関連業務に従事しているわけではなく、医療関係者でもありませんので、記載内容を実際に適用される際には一次ソースを確認の上、自己責任でお願いします。